【中国あれこれ】 『第八章 現代中国への道 ⑦ 』

1985年秋、その電話は突然だった。

「ハバちゃん? Iです」伊藤忠商事のI氏からだった。
「オーダーナンバー○○〇、キャンセルしてほしい」
「えーっ!無理ですよ。もう生産終わりますよ。半分以上がもう大黒ふ頭に入ってます」
「分かっている。だが船積みを止めてくれ。海南島に荷揚げできない」
「どういうことですか」
「詳しくは明日大森に行って話すから、シッピングインストラクションを大至急止めてほしい」
「わかりました、とにかく船会社に連絡します」

何か起こったのか? ただ、何かとんでもない事が起こったことだけは察することができた。私は直ぐに上司に報告して船を止めた。300台のデッドスペースが出る。それも全て承知の上でのキャンセルだった。これが後に中国自動車産業に大きな一石を投じる事件になるとはまだ知るところではなかった。

1980年代から1990年代にかけて、日本自動車メーカーは中国向けに大量の完成車を輸出してきた。当時、車両輸入は政府への外貨枠の申請とIL(Import License)の取得が必要であり、貿易権を有する中国の公司の間では当局が発行するILの争奪戦が繰り広げられた。貿易権があっても自動車に関してはILが必要なために、そのILの転売が横行した。日本の商社は中国側からの引き合いに対して先ずILの有無を確認する。ILがなければオファーは出来ない。

職権乱用とは正に当時の中国のIL発行に関る役人にこそ当てはまるものだった。 現在では習近平主席の「ハエから虎まで」との号令で腐敗した贈収賄は厳しく摘発されているが、当時は当り前のように半ば堂々と行われていた。この問題が明るみに出たきっかけが海南島経済特区に与えられた免税制度だった。

海南島で荷揚げされる車両には海南島開発を大儀として輸入関税が免除されるというもので、当時まだ乗用車市場が大きくなかったことから、7人~12人乗りのワゴン車が主流となり大量の完成車が海南島に輸出された。しかし、海南島開発に何万台もの車両が必要なわけもなく、ILを取得している者は輸入後にその車両を販売できることから車両を必要とする本土に転売を繰り返し、その車両価格は高騰した。車両不足に加え、免税により安価で輸入された車両に国内車両販売公司は群がった。役人が絡むことから、その違法転売はなかなか明るみに出来なかった。

しかし、最後には高値になり過ぎ、転売先が見つからないことで輸入車両が停滞し始めた。発覚した。120人以上の役人と輸入業者が逮捕される大きな事件となった。逮捕者の中には日本に招待され、出張という日本観光をメーカーに求めた者も少なくなかった。日本の新聞にも逮捕者の名前が掲載された。

「課長、海南島△△公司の〇〇さんの名前が出てます」私は新聞に知っている名前を何人も見つけることが出来た。来日時にアテンドした人達だった。

事件発覚で中央政府が動き、海南島向け車両の荷揚げは突然禁止された。その時点で海上輸送途中にあった何千台というクルマが行き場を失くした。

その後、ILの発行、取扱いは厳しく管理されることになる。

1994年、政府は第8次五か年計画において国家政策として「自動車産業発展政策」を発表した。中国は自動車産業を国の基幹産業に育成し自動車大国になることを決めた。この時点における中国の車両全体需要は150万台に達していなかった。

あの広大な国土、14億の国民、世界の自動車メーカーは将来の巨大市場に魅せられた。各社独自の中国戦略が本格的に始まった。

中国は国内生産技術と品質の向上の為に外資メーカーとの技術提携を促進させた。その後、完成車の輸入は段階的に減少することなる。中国自動車産業は第8次五か年計画で再出発した。それから30年、ついに中国はEVの急発展により全需3000万台の世界最大市場になった。

中国自動車産業の発展政策は現在でも目標を達成してはいない。段階的目標を通過点として更なる発展を目指している。その過程には様々な人間が関わり、今後もそれは絶えることなく継承されることは間違いない。あの事件で逮捕された方々は今、どこで自動車産業を見ているのだろうか。

 (幅舘 章 2024年6月)