【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~②

3 25 2020

二.祖母のこと

 
祖母は北京の西、門頭溝の出身で弟が三人いた。

1911年、孫文が指導した辛亥革命は溥儀が最後の皇帝となった封建統治の清を倒し、中華民国が成立した。
国中の男も女もまずは自身の上と下のことを整理した。男は上のこと、頭の後ろで邪魔になっていた辮髪を切り落とし、女は下のこと、足の正常な発育を無理やり止めていた纏足用の長い布をほどいた。途中で纏足をやめた祖母と同じ年代の女性たちの足は、大きくも小さくもない、どっちつかずの「解放足」と呼ばれるものになってしまった。

すでに結婚しているので足が大きいことなど気にする必要のない祖母は、若い頃は在中国日本大使館(現在は正義路の北京市政府所在地)で「アーイーさん」をしていたが、1925年、大使館が国民政府とともに南京へ移転したことで失業し、専業主婦となった。何不自由なく二人の小さな息子を育てていた祖母であったが、十数年後、祖父が病死したことで、その恵まれた生活は突如として終わりを告げた。
夫と収入源を失い婚家から不幸を招く女だと言われた祖母は、先祖伝来の家を追い出され、二人の子供を連れてしかたなく実家へと戻った。

祖母は何でもできるとても強い人だった。食べていくために必死に働き、どんなに生活が苦しくても歯を食いしばって耐えた。三人の弟たちからの経済的援助もあって、上の子はどうにかこうにか中学校を卒業させたが、家を継ぐ存在の弟たちにそれ以上の負担をかけるのは忍びなく、下の子である私の父は小学校を卒業すると進学はせず、天津に行って生計を立てるほかなかった。

祖母は私たちが暮らしていた工場内の宿舎では有名な世話好きで、近所の共働きの家が夜勤と聞けばいつも進んで子供を預かったし、月末にどこかの家で食料を買う金が足りないと聞けば援助の手を差し伸べた。
祖母は、日々の暮らしの中でとりわけ食べることにこだわりを持っていて、家族の誰が作った料理であっても、かならず批評をしたものであった。外食に出かけた時でさえも祖母はひとしきり演説をぶち、それが終わらなければ料理に箸をつけることはできなかった。

祖母の食に関する知識は豊富で、御膳房の料理番であった曾祖父が作った料理を何年も食べていたのだから、料理の良し悪しについて誰よりも発言権を持っているのは当然のなりゆきだった。
祖母はいわゆる「口は出しても手は出さない」タイプで、普段は油の瓶が倒れていようともお構いなしであったが、家にお客が来たときは必ず自分で台所に立ってお得意の打滷麺(餡かけのうどん)をこしらえた。「ベテランが乗り出せば一人で二人分の働きをする」とはこのことなのだが、これはごくたまにしか見られなかった。

打滷の作り方はこうだ。
茹でてから薄く切った豚のばら肉、冷たい水に浸して洗ったモウコシメジ(もしくはシイタケ)の薄切り、黄花菜、きくらげ、鹿角菜(海藻の一種)、むきエビ(もしくは干しエビ)を、ばら肉の茹で汁に入れ、煮立ってから赤茶色になるよう醤油を加え、塩で味を調える。さらに沸騰させ水溶き片栗粉でとろみをつけた後、溶き卵を流し入れて器に取り出す。ごま油とピーナッツ油を半分ずつ入れた別の鍋に花椒を加え、熱して香りが立ってきたら、それをあらかじめ細切りにしておいた長ネギの上にあけ、そしてさらに餡かけの餡が入った器に移して混ぜる。熱々でてらてらと光るうっとりするような餡のいい香りがたちまち部屋全体に広がる。

祖母はこの素晴らしい「妙技」は曾祖父の直伝だと言っていた。名だたる名店でもこんな味を出せるのは数軒かしかないはずだ。私の作る餡かけうどんは祖母の技を受け継いでいる。自分の実家でも妻の実家でも、会食の時には絶対に欠かせない主食となっていて、謙遜なしで言わせてもらえば、その味は一族全員が認めているのである!

祖母は思ったことをズバズバと言ってしまう話好きだった。隣人との付き合いでも一向に構わずに正直になんでもしゃべってしまうので、我が家の内緒話でさえも誰もが知っている有様であった。とくに食べることに関しては得意分野であり最も発言権を持っていて、普通の人は口をはさむことができなかった。

口は禍の元。これが人々の嫉妬を招いた。

かつて美味しいものを食べ裕福な生活を送っていた人たちの「話のネタ」は、文革初期、階級的意識の高い革命大衆によって、党と社会主義制度を汚したという犯罪の証拠にされたのだ。封建地主階級の子孫ということになってしまった祖母は、街中を引き回されたり、批判されたりし、紅衛兵たちは祖母が結っていた髷を切り、その頭頂部をバリカンで十文字に刈り上げた。

祖母はその上、毎朝毎晩、監視の下で毛主席のポスターの前で頭を下げて謝罪をしなければならず、胸の前には罪名と赤いバツがつけられた名前が書かれたボール紙のプレートを下げさせられた。
祖母の隣に立っていたのは地主の妻という罪名のプレートを下げた纏足のおばあさんだった。ある時、そのおばあさんが何か言ったのを監督の紅衛兵が聞きつけた。紅衛兵はおばあさんを蹴り上げて跪かせ、手に持った軍用ベルトで頭や顔を滅多打ちにした。どす黒い血が一瞬にして髪の毛や頬を染めた。そして祖母を含むその他の「罪人」の顔にも唾や痰が浴びせかけられ、罵倒は言うに及ばずであった。ひどい屈辱を受け、人格は捻じ曲げられた。

さらに大きな衝撃や不測の事態が起きるのを避けるため、山西省の大同に住んでいた伯父が、月あかりのない風の強い日の深夜にやってきて祖母をこっそりと連れて行った。祖母を連れ戻して引き続き闘争にかけるよう訴える人もいたのだが、「黒五類(地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派)」はあまりに多すぎて紅衛兵たちも構っている余裕はなかったようだった。



三.大叔父たちのこと につづく