【新連載】家庭軼事 ~ファミリーヒストリー~①

1 27 2020

当機構北京事務所の運転手、邢恕平さんが今回は一族の歴史を書いてくれました。

歴史の教科書やテレビで見たり聞いたりした人たちの名前もちらほらと出てきます。
中国の一般市民がそれぞれの時代にどのように生きてきたのか、生活の一端を垣間見ることができると思います。

事務局で翻訳し、不定期で掲載していきます。どうぞお楽しみに!





家庭軼事 ~ファミリーヒストリー~

 「雪雯啜茗閑,楮墨典籍覧,細品其中味,梦若似流年(雪は止み空が晴れた。私は家の中でお茶を飲み、糸綴じの古書をめくる。茶と本とを味わいつつ、人生は夢のようだと詠嘆する。一年はまるで水のように瞬く間に流れてゆく)」 
これは何も有名な文人墨客の作品ではない。「清明節」の連休中、人生62年のうち北京で最も遅く降った雪を見た時に、一介の市民である私が書いたものである。
あの時の雪は正真正銘の「春の雪」だった。前の年に冬に入ってからまるまる150日が過ぎていた。「雪の精」がなぜこんなに遅れてしまったのか、人々はその原因をあれこれ推し量った。もしかして北京に来るまでの道で深刻な交通渋滞に巻き込まれたのではなかろうか?それとも、北京へ入るための手続きに不備があったとか?はたまた厄年の鳥インフルエンザに罹ってしまったから?どんな原因にせよ、とにかくこの時降った雪はあまりに時期が遅かった。酉年の冬に間に合わなかったなんて尋常ではない。

それはさておき、尋常じゃないことは多い。気候や社会、家庭だってそうではないだろうか?「家庭は社会の基本的な細胞である」ということは私たち誰もが知っている。繁栄と分裂の過程において、一族の軌跡を生真面目に受けついていくものもあれば、独自の意見を持って家庭をいびつなものにしていくものもある。いずれにせよ、ありきたりで変化に乏しいものや、奇想天外なもの、それぞれの家庭は社会という大舞台で割り当てられた役柄を演じている。

雪は止み、空は晴れた。私は手の中の本を置き、窓の外の融けずに積もっている雪を眺めた。
思いを巡らし、清朝末期から100年余りのわが一族の断片的な記憶をさかのぼってみた。

 
一.曾祖父と祖父のこと

話せば長いことながら、まずは肩で風を切っていた料理番――私の曾祖父の話から。
「玉杓子を振り回してるだけの料理番が肩で風を切っていただって?」という方がおられるかもしれない。いえいえ。曾祖父はそんじょそこらの飯屋の料理人ではなかった。清朝末期「御膳房」の名料理番、皇帝、皇后そして皇太后のためだけに一日三食の料理をしていた専属料理番だったのだ。その当時、曾祖父は通行証を腰にぶら下げ、毎日人力車に乗ったまま紫禁城に出入りしていた。街を行き交う人々は曾祖父だとわかると自分から道を開け、門番の検めも丁寧なものであった。これは曾祖父の身分を物語っており、曾祖父に肩で風を切らせる源でもあった。

曾祖父がそんなに威勢が良かったのにはこんな背景があったからだ。清朝の宮廷を描いたドラマや映画などでご存じのように、その頃の西太后の日常の食事はとても趣向が凝らされ、派手なものであった。毎日、数十から百種類の料理が用意され、その大部分は食べないとしても卓上に並べて西太后を精神面から楽しませ、目の保養としなければならなかった。西太后は好き嫌いが多く偏食で、皇帝よりもお仕えするのが難しかった。西太后はお天気屋で、急に不機嫌になったとしても、夏の雷雨のようにそれはあっという間に過ぎ去ってしまうことは、料理番たちにとって暗黙の了解であった。気分がいい時には二度も箸をつけることがあり、もし「同じ料理を三口食べるべからず」という皇室の掟※ がなければ、全部食べてしまう勢いである。それなのに機嫌が悪ければ同じ料理であっても眉をしかめ、皿や箸を押しやると一口も食べない。宦官たちはその様子を見るとご主人様のご機嫌を取ろうと御膳房へ行き、料理番たちの落ち度をいちいち並べ立てる。

毎日をびくびくしながら過ごしている料理番たちが一番恐れていたことは、やはり西太后にお目通りすることであったが、後宮からのお召しで生きた心地がしない料理番たちは、宦官たちの顔色を見れば大体のことは察しがついたし、宦官が何か物を手にしていれば料理番たちのドキドキは収まった。西太后から下賜される物品は大きいものから小さいもの、高価なものからそうでないものがあった。同様に処罰にも段階があり、死罪とまではいかなくても、紫禁城を追い出されるものは大勢いた。曾祖父はしょっちゅう褒美をもらい、長きにわたって御膳房に居座ることのできた幸運の持ち主の一人であった。

1900年の夏から秋へ変わる頃、八か国連合軍が北京へ攻め入って来るといううわさを聞いただけで紫禁城の主人たちと大臣たちは肝をつぶし、慌てふためき遠く西安へと逃れていった。逃避行で疲れ果て、心ここにあらずの人々は少しのことでもびくびくとし、眠ることも食べることもままならなかった。ところがそんな境遇になっても西太后は食事の時には相変わらず選り好みをし、随行している料理番たちをひどく困らせた。料理番たちは苦心惨憺して脳みそを絞り、限られた条件の下で西太后の口に合う料理を三度三度作り出した。幸いなことに、その料理番たちの苦労はその後に報われることとなった。

大清帝国が大きな災難に見舞われた後、数か月もの流浪生活を送った皇帝、皇后、皇太后とそのお付きの者たちは、紫禁城に舞い戻ってまた権勢を振るいだした。そして西太后は、逃避行に随行した「功労者」たちに褒美を与え、ねぎらうよう命令を下したのである。

曾祖父は非常に高価な財宝や、西太后御用達の「大雅齋」の落款が入った磁器や光緒帝御用達である「慎德堂」の落款が入った磁器を拝領した。こういった落款が入った本物の磁器は、現代の蒐集家たちが追い求める「獲物」である。曾祖父はこのほかにも鉄老鴰胡同(文革の頃に鉄鳥胡同と改名された)周辺、そして北は西草場や騾馬市大街、東は琉璃廠の南端、西は校廠口までの範囲に、大小合わせておよそ200軒の四合院まで賜った。だしぬけにこんなにたくさんの分不相応の財物と大量の不動産が曾祖父に降ってわいてきたのだ。さらに肩で風を切ってしまうのも無理はないというわけである。


7人の子を持つ曾祖父の故郷は福州だ。その料理の腕前は四方に鳴り響き、ついには北京の紫禁城の御膳房での料理番に迎えられた。そこで一家総出で北京に引っ越してきたのだった。名家や高貴な家柄ではないものの、一般の家庭とは比べものにならないくらいの生活環境で、私の祖父以外の6人の兄弟姉妹は勝手気ままに暮らしており、元々しつけがおろそかになっていて甘やかされ放題の田舎者には良いところは一つもなかった。

北京に来てからというもの、その思い上がりはさらに甚だしくなり、怠け癖がしみついて働くことが嫌いな6人の役立たずたちは、間もなくそれぞれが「飲む打つ買う」のさらなる悪習に染まり、名実ともに放蕩息子、放蕩娘となったのである。金を湯水のごとく使い、やりたい放題されたおかげで、曾祖父が一生かけて蓄えたかなりの額の財産は、たった20数年のうちにすっからかんとなり、200軒近くあった家も跡形もなく消えていった。このことからすると、分不相応の財貨は持つべきではないということだ。自分で働いて得たものではないのだから、大切に使うことを知らない。

近年、古い街並みの再開発のスピードの加速によって、かつて曾祖父と関係があった、けれどもとっくの昔に誰のものかわからなくなってしまった四合院は瞬く間に次々と解体されてしまった。今はただ西草場という地名だけが残るのみである。

7人兄弟姉妹の上から5番目の祖父は、小さいころから衣食に困ることのない家庭の中で育った。兄弟姉妹の中では異質な存在で、唯一曾祖父を満足させることのできる自慢の息子であった。北京に来てからというもの、祖父の6人の兄弟姉妹たちは毎日のように、あらゆるよろしくない道楽にふけっていたが、私の祖父ただ一人だけは北京の歴史ある文化や学問の雰囲気に引き付けられていた。「聖賢の書物を読みふけって、周りにどんな事が起きても気づかない」といった風で、私の祖母に言わせると「本の虫」だっだそうだ。

何年もわき目も振らず苦学したおかげで、ついに京師大学堂(燕京大学と合併して現在の北京大学となった)に合格し、そして法学士の学位を取得した。祖母と結婚して、私の伯父と父である二人の息子をもうけ、その数年後には仕事の関係で出身地の福州へ単身赴任した。福州と浙江の境界にあった周寧監獄の監獄長も兼任していたが、肺結核で40歳の若さで亡くなった。祖母は「きれいな花がいつまでも咲いているわけではないように、良い人もいつまでもいるとは限らない」と祖父のことを懐かしんでいた。

私の幼い頃の祖父の印象といえば、黒い額縁に収まった、家に一枚だけ残された写真がすべてだった。残念ながら、祖父の写真は文革の時、家捜しに来た紅衛兵たちにびりびりに引き裂かれ額縁もガラスごと粉々にされてしまった。祖父は典型的な福建人で、頬骨が高く、大きくはないが生き生きとした思慮深い眼差しをしていた。口角が少しだけ上がった口からは真っ白な歯がのぞき、短く刈り上げた髪は、頭が切れ仕事ができそうに見えた。その孫の私はといえば、「改良」されてしまったと思しき部分を除けば、なんとなく祖父の面影が残っている。これも遺伝子のなせる業なのかもしれない。

 
皇室の掟 : 三口以上食べるとそれが好物だとわかってしまい毒を盛られやすくなるからという説がある。その料理は二度と供されなくなる。


二.祖母のこと につづく



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